第33回「友の死」の続き

細かくはもう語らないけど、とにかく泣けてしまう。脚本、演技、演出、音楽、全てが泣かせにかかる。明里が最後に泣くシーンと、土方が泣くシーンがヤバイ。
この回はきっと大河ドラマ史に残る名場面になった、と僕は勝手に思ってるんだけど、ここまで響いたのはなぜか。
もちろん堺雅人の名演に負うところは大きいんだけど、僕は「一緒にすごした時間の長さ」と、「友の切腹」ってファクターも見逃せないと思う。
「一緒にすごした時間の長さ」っていうのはもちろん3クールもの間ずっと山南さんを見続けてきて単純に感情移入しているということ。山南さんが徐々に居場所をなくして追い詰められて脱走に至る過程、つまり山南さんの苦しみを僕らは共有しているわけで、そこに感情移入が生まれる。名も知らぬ人の死より、親友や肉親の死のほうが大きなインパクトを持つのと同じ。
そして「友の切腹」。ほら、『独眼竜政宗』での弟殺しとか、『太平記』で足利直義が毒殺されたときとか、『信長』の信行殺しにも結構な衝撃を受けたじゃないですか(押し付け)。でもね、いくら肉親だと言ってもこれは主人公からしたら敵なんですよ。自分の家督とか権益を奪おうとしてる敵なんですよ。そこに肉親を殺さねばならないジレンマは存在するんだけど、それでも殺すことの必然性はあるんですよ。でもね、山南さんは「同士」で「友」なんですよ。別に主人公の近藤勇とは敵対してないの(少々意見の違いはあったかもしれないけど)。なのになんで山南さんが腹を切らなきゃならないの? そこで山南さんが死ぬ必然性がないじゃない。あるとすればそれは「法度」とか「武士の誇り」とかいうあいまいなもので、なんでそんな(現代人の感覚からすれば)不条理で気持ちの悪いムードのようなものにくるまれて「切腹」を選ばなきゃならないの? っていうところですよ。なんかわかんないけど友達が死ぬって言ってる。でも誰も止められない。「切腹」って自殺ですよ? 自殺する友達を止めよう止めようと必死であがくのに止められないんですよ? 本人は気持ち悪いムードに毒されてすっかり死ぬ気で自分の話はいっさい聞いてくれなくってあまつさえ微笑んでるんですよ? これ以上に悲しいことってありますか?
というわけで分析すればするほど見直したときに我が身に重ね合わせて泣けてきそうなのです。高校1年のころ同じクラスだったあいつ、あんまり喋ったことはなかったけど気のいい奴だったあいつは、いったいなんで3年の夏に死んでしまったんだろう・・・。残された僕たちの心の中にはいつまでも消えない不条理感と疑問符。つまりはそういうことです。結局自分語りかよ。
あ、最後に一つだけ印象批評させて。オダギリジョーのあの顔は反則。一瞬誰か分からんかったわ。あそこで無関心キャラの斉藤一にあの表情をさせちゃうところがすごい。